某月某日…。
A先生のお手伝いで一橋大学如水会館へ。講演名は「フランスのエスプリ~クープランとドビュッシー」。
「ガタガタのベヒがあるらしいのだけど」と先生。
「え?ガラガラヘビですか?」と私。
ベヒとはベヒシュタインのことでした。
ま、そんな冗談は置いて…そのベヒ、会場に行って、見て、聴いて、驚いた。
骨董のレース細工のように一つ一つに淡い上品な光沢を発する音色。聞けば1923年製だそうで戦前・戦後の一時期まで
原智恵子女史や
安川加壽子女史がたびたび演奏していたのだという。受付で手渡されたこのピアノにまつわるエピソードが印象的なので少し紹介する。
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(略)昭和19年(1944)10月、この兼松講堂において本学学生の出征学徒壮行会が行われた。2、3の教授の壮行会でピアノ演奏をしたのが、日本人ピアニストの草分けとしてショパンコンクール(1937)に初めて入賞した「特別聴衆賞」も得て、世界中から「東洋の奇跡」と称えられた国際的な名ピアニスト・原智恵子(1914-2001)だった。
彼女は13歳でパリに渡り、ラザール・レヴィ、コルトー、ルービンシュタインなどに師事、コンセルヴァトワール(パリ音楽院)を首席で卒業しピアニストとしてのキャリアを着実に歩み始めたちょうどその矢先、戦争のために帰国を余儀なくされていた。
帰国後は、最も著名な演奏家の一人として、戦時色濃厚な中、芸術を求めて止まない人々の期待に応えて演奏を重ね、表現の自由が極度に制限された中でも、芸術としての本来持つ自由な精神を決して失わなかった意志の人でもあった。
実は、当初、彼女は出征壮行会なら出演しないと固辞したと伝えられている。ところが、当時日本に3台しかないといわれたドイツ製ベヒシュタインピアノがあると聞いて、まさかと驚き、「そのピアノを弾かせていただくために…」ということで演奏が実現した。
(略)そして演奏が終わると自ら進んで演壇に立ち挨拶した。
「本日は思いもよらぬ素晴らしい会にお招きいただき感激しております。ただいまは戦(いくさ)に向かう若者の情熱を讃えたショパンのポロネーズを演奏いたしました。行く日があれば必ず帰る日もあるはずです。ご凱旋のときにはぜひともまたお招きをいただきたい。みなさま、おすこやかに…」
この美貌のピアニストは両手を前に固く結び、両眼からとめどもなく溢れ出る涙は頬を伝って流れ落ちていた。
引用元:兼松講堂のものがたり
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私は、音楽を「あれがうまい」「これがうまい」だけで接しないように戒めているつもりだけれど、このような場面を綴った文章に出合うと「あぁ気をつけなきゃ」と改めて思う。今は本当に恵まれているのだ。恵まれていることは、もちろん「悪」ではないのだけれど。
ところで、本来講座用に用意されたピアノはYAMAHAさんのセミグランドだったようだ。こちらは準備万端調律もされてステージがあるとしたら、ちゃんとセンターにセッティングしてある。ところがA先生は、講堂の脇に無造作な感じで置かれている無調律のベヒシュタインにべったり。なかなか離れようとしない。
YAMAHAさんのは物理学的根拠を基に計算しつくされたボディーと発声で、音色も音量もそれなりで決して悪くはない。それはこの日聴いても同じ。クルマでいえば最新オートマ車を運転するように滑らか。一方ベヒシュタインは手触り楽しい骨董の感覚。スペック上では劣るクルマかもしれぬが、転がして楽しいのは断然こっち…と聴いていて思った。
音楽を用いた講義であったが、私はベヒを使ったFrançois Couperin (
大クープラン)の「百合の花開く」が最も気にいった。
百合の高貴な花の匂いを感じさせる音色で…