一柳さんと縁深いJohn Cage(ケージ)の作品
P.Zukofskyとのコラボレーションで創作
(続き)
一柳さんの話には共感することが多かった。
一柳慧さんといえば、個人的には、ヴァイオリニスト、Paul Zukofsky(P.ズーコフスキー)氏と仕事をされていたときに「聴き手の一人」として接し始めた記憶がある。人によってはオノ・ヨーコさんの元夫でご存知かもしれないが。
お話を聞いて私がうなったのは3つある。
1)(未来、前に進むために)日本音楽の原点に復帰する。
2)東洋の音楽にも西洋の音楽に決して劣らないコンセプト(≒哲学、考え方、論理)が実は存在するのだが、そこにまで踏み込んでいないことが多い。技術的な問題については解決しているのだが。
3)余り(西洋と東洋の)「融合」を考える必要はないと思う。元々のコンセプトはひとつだから。
上記は、何人かの質問者からの問いに答える形で引き出された。ひとつ目の発言にはなるほどと思い、二つ目の発言には勉強になった(そういえば全く同じことを東儀秀樹さんも仰っていたな)、三つ目の発言には強く共感を覚えた。
他に「絶対音感はほとんど通用しなくなってきているのではないか?」にも同感。私は20年くらい前から秘かに「絶対相対音感」と感覚的に名づけて自分なりの理解を持っている。いきなり論理が飛躍するが、音楽は、だから、合っているとか合っていないとか、たったそれだけの「軸」で聴くことのできない文化なのである。
ときどき「音楽の方向性や路線が違う」とか「違うアプローチで云々…」という…私には「怒りを越して悲しい」類の…言葉に出くわす。
私はクラシックを聴く、と同時にヒップホップの音楽にも興味がある。それは現代では避けて通れない文化だからだ。また歌謡曲(J-POPといっても良いけれど)には、源氏物語と時間を超えた共時性を感じるし、ドビュッシーやヴェーベルンからは古い壁をぶち破ろうという狂気な熱が聴こえる。平均律も純正律もWindowsとMACに似て同じく扱うし、つまり音楽をひとつの大きな河か海と思っている。流れは同じで還るところは全て同じ。つまり違わない。一緒。
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